投稿日:2024年7月16日 / 更新日:2024年7月17日


参加者

吉田寛(『デジタルゲーム研究』著者、東京大学大学院人文社会系研究科教授)

三宅陽一郎(ゲームAI研究者/日本デジタルゲーム学会 広報委員長)

井上明人(立命館大学映像学部准教授)

記事作成 木村亮太

井上:それではゲームスタディーインタビューズの企画を始めさせていただきたいと思います。今日はわたくし井上と、『デジタルゲーム研究』の著者である吉田寛先生、そしてDiGRA Japanの会員でもある三宅陽一郎先生という3名での鼎談という形で、吉田さんが去年の9月に出版されました『デジタルゲーム研究』の話などをしていければいいなということで、企画をさせていただきました。

『デジタルゲーム研究』について

井上:9月に出版になった吉田さんの『デジタルゲーム研究』の原稿は、私は吉田さんの発表原稿はほぼその都度読ませていただいていましたが、改めてこうやって収録されると、吉田さんのパースペクティブの全容が見えてくるという印象がありました。三宅さんはこの本全体をどのように感じられましたか?

三宅:はい、とてもわくわくしながら全体を読ませていただきました。ゲーム研究のメインな有名な人から、これまであまりゲーム研究と結びつきがピンとこなかったような方まで引用されていて、かつ、吉田さんのオリジナリティが強く出ている面もとてもあって読み応えがありました。これからゲーム研究をもう一回始める出発点でもあると同時に、これまでのデジタルゲーム研究の集大成、1つの着地点のような印象を受けました。

吉田:この本は去年の9月に出たもので、私がこれまで書いてきた論文を一冊にまとめた本です。2008年から2021年までの14年にわたって書いてきた12本の論文に、新たに書き下ろしたイントロダクションを追加して出版しました。もちろん私のすべてのゲーム研究論文を収録したものではなく、自分の主張や問題意識が比較的よく出ていて、多くの人に読んでほしいな、と思う論文を中心に12本を選んだわけですが、執筆した年代順を大きく崩すことなく、知覚と認知、ゲームプレイ、メディア、その他という四部構成が作れたので、ゲーム研究における私の関心がこういう順番で推移してきたということが結果的に分かっておもしろかったです。

とはいえ、この本は全体として私のオリジナルな主張を強く出した本というよりも、先行研究で言われてきたことをまとめたものという性格も強いんですね。あくまで論文集であり、一つのまとまった主張を押し出しているものではない。私のオリジナルな思想を提出したものというより、ゲーム研究の主要な論点や論者の見解を整理したという傾向が強い本だと思います。

なので、私の主張に納得できない、あるいは私の主張が弱いな、甘いなと思う読者も、ここに挙がっている主題と先行研究を自分自身で辿っていけば、何か新しいことが言えるはず、そしてぜひ言ってほしい、という本にしたつもりですので、そういう意味では、ゲーム研究にはこのような研究者がいて、このような問題と研究の蓄積があるんだよと初学者に示す役割もあるだろうと思っています。

井上:今言っていただいた通り先行研究が非常にしっかりまとめてあるというのが、この本の強みの1つだと思います。「この論点だったらこの著者のこれが重要で」っていう話がかなりカバーされているので、研究の取っ掛かりとしても使いやすいと思います。

三宅:文章の密度が高くて、2行に3つの文献が引用されているとか、内容と内容の繋ぎ方に吉田さんのオリジナリティ、思考の跡がくっきりと見えて、これまで遠かったものがつながる感じがして、はっと気づかされる点が多かったです。あと本当に各章ごとにガラッと話題が変わるので、デジタルゲーム研究の多面性みたいなものが非常によく表れていると思いました。

第4章の紹介

井上:さて、本全般の紹介をさせていただきましたけれども、今日は事前に調整しまして、具体的なパートを絞って第4章の「ゲームプレイと他者への信頼」を深掘りしましょうということで、ここから具体的に4章の話をできればと思います。

吉田:第4章は「ゲームプレイと他者への信頼」という章なのですが、これはもともと韓国で開催されたカンファレンスのための発表原稿だったんですね。2016年に韓国の釜山で、韓国・日本・中国から研究者が集まった、東アジアのサブカルチャーをテーマにしたカンファレンスがあり、そこに呼ばれて話すことになったので、ゲーム文化のポジティブな面を取り上げたいなと思いました。というのも、日本と比べて、韓国や中国では娯楽としてのゲームに対する社会の風当たりが強く、せっかくわざわざ日本から呼ばれて参加するのならば、少なくとも自分はゲームのポジティブな面に光を当てるべきだろうと思ったのです。日本国内で日本人向けに発表するなら、このようなものは書かなかったし、また書けなかっただろうとも思います。

ただしそのためもあって、この章はかなりアジテーション風に書かれていて、必ずしも学術的な裏付けが取れないような部分も多く含まれています。私独自のゲーム観や信念が全面的に出たものになっていますので、読者はいくらでも反論が可能だと思います。一応カイヨワやユールなどに依拠していますが、かなり恣意的というか私独自の手法でやっていて、先行研究の使い方も自分の主張に引き寄せたものになっていると思うので、今回はそこは適宜批判してもらいつつ、お二人ならばこうした問題をどう論じるかということに非常に関心があります。

この章での主張を一言で要約するなら、ゲームプレイは他者の存在を前提としていて、しかも他人を信じなければゲームを楽しむことはできない、ということです。対立や競争をめぐる興味深い逆説がゲームにはある。つまりゲームは、協力と対立が両立するような不思議な構造をもっている。対立と協力は実は弁証法的な関係におかれていて、ゲームプレイヤーはお互い対立していながら、プレイをできるだけ長く続けるために協力しているとも言えるわけです。

ところがこうした対立と協力の弁証法を支えるもの、その根拠は何かを問おうとすると、実は答えは簡単ではないんですね。少なくともそれはルールではない。ルールは明示されていますが、「どうしてルールを守らなければならないか」ということは明示されていないわけですから。そうするとわれわれがルールを守ってゲームを遊ぶのは、他人も自分と同じように考えてゲームを遊ぶだろう、あるいは公正な競争が確保されているだろう、ということへの確信があるからではないかと。ただし実際には、そうした確信の合理的基盤やエビデンスなどはない状態で多くのゲームはプレイされているわけです。だからゲームをプレイすることは既に他者や世界に対する信頼を含んでいるし、逆にいえば、他者や世界に対する信頼がなければゲームをプレイすることはできないだろう。そういうことを言おうとしたわけですね。

そしてこのことは科学と宗教の関係をめぐる現代的議論と似ていると私は考えていて、この章ではテリー・イーグルトンの『宗教とは何か』という本を引用していますが、そのなかでイーグルトンは、「理性と合理性の時代には信仰は不要である」といった現代の俗流科学観を痛烈に批判しています。イーグルトンによれば、科学の根底には理性では裏付けられないような領域があり、それは信仰なのだと。したがって、リチャード・ドーキンズやクリストファー・ヒッチンスが主張するのとは真逆に、現代においてもなお、あるいは現代においてこそなおさら、信仰は重要なのだと。そして信仰とは「見えないものに対する確信」であり、「参加と連帯の問題」なのだと。このイーグルトンの主張は、ゲームプレイやゲームコミュニティについても言えるなと直感し、両者を結びつけてみたということです。

先ほど第4章は研究論文としては問題含みだということを言いましたが、私の癖としてその時点で関心を持っているものをなんでも強引にくっつけて一挙に考えてしまう傾向があり、おそらく多くのゲーム研究者はこの議論の文脈でイーグルトンを持ってこないと思うし、私も今なら持ってこないかもしれません。当時このイーグルトンの宗教論を読んでいたところに、ちょうどイェスパー・ユールの『The Art of Failure(邦題:しかめっ面にさせるゲームは成功する  悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン)』も読んでいて、ユールもそのなかで、シングルプレイヤー向けのゲームで一人で遊んでいるときでも、プレイヤーは社会や他者を信頼している、と書いているのを発見しまして。そこでユールの議論とイーグルトンの議論をつなげることで、ゲームプレイは他者への信頼や連帯を含んでいるから、プレイヤーはゲームをやるだけで十分な社会参加をしている、と言おうとしたのです。

そしてこれが、私がアジアの若い人達に伝えたかったメッセージで、ゲームをしているという状態は単なる個人的趣味ではなく、同時代を生きている他の誰かに対する連帯を表していて、それを実践している行為なのだから、ゲームにハマってどんどんやることで閉塞した時代を一点突破してほしいというメッセージを込めようと思いました。ですから『デジタルゲーム研究』のなかでは珍しく、この第4章は、何か新しいことを明らかにした研究論文というよりは、自分の信念を表明し、それに肉付けを与えたようなテキストになっていると思います。

三宅:今の議論に続けますと、たしかにゲームプレイするときにはゲームに対する信頼があると思うんですね。特に子どもの頃であればゲーム世界を一つの世界として捉えているので、1面やったら2面はもっと面白いみたいな信頼があって、段々年を経ていくとこの開発者やゲーム会社だったらこうやってくるだろうなとか、そういうゲームの外の社会のことを考え始める。決して目には見えないんだけど、ゲームをするっていうのはやっぱりコミュニケーションでもあって、作り手がいて、面白いはず、楽しませてくれるはずという信頼というものがあるんじゃないか、と考えます。それが例えばオンラインプレイだと、プレイヤー同士に共通なゲームに対する信頼感というか感覚っていうのがあって、それを共有するのがむしろ楽しいみたいなところがあるのかなと思います。

一方で、用意されたものに対する拒否感というのが2010年代から出てきたのかなと思います。90年代のPCゲーム、特に「洋ゲー」はなんというか、荒削りで制作者から放り出されたようなゲーム感覚っていうものがあった。それが妙にゲームの広がりという効果になることもあった。それが最近いわゆる「ソウル系」などのゲームで復活しているように思えます。むしろ開発者のつきはなし感を上手く利用してコンテンツを展開しているところがあると思うんですよね。

自分はAIが専門なので、デジタルゲームというものはAIによってボードゲームのようにプレイヤーが同じ立場の対称的なゲームから、非対称なものになってきた、と考えています。非対称なものになるということは結局、プレイヤー対作り手みたいなことになってしまう。そうなった時にプレイヤーはAIたちと戦う向こう側に、ゲーム開発者あるいは漠然とゲームを統べる主体、デーモンみたいなものを感じながらプレイしているのかなと。それに対する信頼があればあるほどそのゲームを好きになるし、あんまりいいデーモンじゃなかったなというのを感じると不信が生まれるのかなと考えます。

吉田:ありがとうございます。ゲームへの信頼が具体的にどういう部分に向けられてきて、それがどう移り変わってきたかを歴史的なパースペクティブのなかで整理していただいたと思います。

一点、三宅さんがお話しされなかったことを付け加えると、いわゆるオンラインゲームやソーシャルゲームでは課金勢、無課金勢みたいな言い方がよくされますが、その両者がうまく共存できる仕組みもこの信頼という要素に結びついていると思うんですよね。課金しているプレイヤーも課金していないプレイヤーもそれぞれ自分なりのやり方で遊んでいて、楽しい、報われると感じているから、同一のゲームのなかで課金して遊ぶ人と課金せずに遊ぶ人が共存できるわけですよね。それぞれ何を賭けて何を得るのかという、ゲームに注ぎ込むものとゲームから得るものの関係があって、そこに信頼が成り立っているわけですよね。プレイヤーごとにモチベーションや技術、参加条件がまったく違うはずなのに、現実に一緒に遊べているのは、やはり確信や信頼があるからで。

もちろんそこでは信頼が裏切られることもあるわけです。このゲームジャンルは苦手だ、このクリエイターは嫌いだ、このメーカーのゲームはもう買わない、といったことは普通にあるわけで。ゲームへの信頼を完全に失くしたら、そもそもゲーム自体をやめてしまうことになるかもしれませんが、実際には多くの人がつねに何らかのゲームをやっていて、ということは、そこにはやりがいのある挑戦や公正な競争があって、自分が注ぎ込んだ時間やお金や労力に見合った報酬や見返りを受け取る、ということが喜びとして経験されているわけです。私がここで信頼と呼ぶのはそうしたもので、注ぎ込むものと得られるものの間に適正な関係が想定されている状態です。

そうした意味での信頼がゲームを支えているわけです。ゲームに入っていくためには、他者への信頼や世界への信頼が必要で、それは同時に自分への信頼でもあるわけですが、この3つの信頼は通底していて、どれかが1つが欠けると他の2つも崩壊してしまうようなものだと思うんですよね。その3つが三幅対となって、ゲームプレイという行為、ゲームを面白く感じる経験を支えているわけです。ゲームプレイというのは、そういう脆いけれども強いものによって支えられている。

そしてそれは合理的基盤をもつ関係でもないし、明文化されたルールで定められた関係でもなく、ルールよりも根源的な、あるいはルールを支えるような関係だと思います。ルールを守ろうね、ルールを守るといいことあるよね、くらいの共通了解が成り立っている状態です。それをゲームプレイヤーが常に持っているということが、私の考えではけっこう重要で、ゲームをしているときには、楽しいから遊ぶ、楽しくないから遊ばない、といった表層的判断の背後に、もっと深い世界への信頼があるはずですよね、ということが言いたいわけです。ゲームがもつとされる本当の社会性は、むしろそこにあるだろうと。合理的ルールを支える無根拠な基盤への確信、不可視のシステムや見知らぬ他人への信頼、そうしたものが社会を作る紐帯や連帯になるべきであるとイーグルトンは説くわけですが、それは決して難しい話ではなく、われわれゲームプレイヤーが実は常日頃からやっていることですよねと。

信仰と信頼

井上:ちょっと僕の方からもコメントしていければと思うんですけれど、すごく面白く読んだんですが、4章の前半にあたる1~5までの、遊戯的態度みたいなものの無根拠性をどう考えればよいかという話までは、すっと納得がいくポイントだったと思っています。

それで、どう考えればいいのかやっぱり難しいのが、信頼っていう概念が非常に多義的かつ大きな概念で、これをイーグルトンの話を下敷きにしつつ吉田による信頼概念の再定義みたいなことで進んでいくところが、ちょっと理解が十分追えていないというところがありました。そこは改めて質問していきたいなというところです。

まず、ゲームの中に信頼みたいなものがあるだろうというのは完全に合意ができるポイントで、特にアナログゲームとかの場合、今ゲームをしている相手がいんちきとかゲームを台無しにしてしまうとかはしないだろうという相互の信頼とか予期みたいなものがないと、成り立ちにくいというのはよく言われる話であって、まあその通りだろうと思います。

そこから、イーグルトンの宗教的な信頼の問題へ行くっていうのが、ここがやはりこう、なるほどそう来たかという感じだと思うんですね。ここで吉田さんが引かれてるイーグルトンの話が収録されている『宗教とは何か』という本は、きちんと読めていないのですが、僕の理解をまず話しておきますと、アメリカの神学論争的な議論プロセスの中で出てきた話で、アメリカの中で創造論者――つまり、ダーウィンは間違ってるみたいに言う人たち――がいて、その創造論者を批判する勢力の人たちもいる。創造論者も問題ではあるけれど、そこへの批判勢力の人たちの問題で、宗教的なものをからかうみたいな態度でいる。しかし宗教の全否定のような態度は、それはそれで大変浅はかなものである、と。そして単に神がいるかいないかみたいなことではなく、世界を良くしようとか、今の世界が本当に良いものなんだろうかと考えたりするようなアクションを起こさせるタイプのものとしての宗教の機能が非常に重要であるという話だ、と理解しています。

 この話がゲームの話に関わってくるっていうのは、かなり珍しい展開だと思ってまして、最初に僕この章で信頼の話が展開されると読んだ時に、ルーマンとかが言うような、行為に対する予期とか予測、期待といったタイプの信頼概念の話でもするのかなと思いつつ読み始めたんですけれど、そういう話ではない。世界に対するコミットメントとかパフォーマティブなものをどう考えるかという話だと思って読みました。それをどう捉えれば良いのかというのが、読んでいて迷子になってしまう感じがちょっとあったんですね。

特に「見返り」の問題って非常に重要なポイントだと思うんですね。なぜ重要かというと、プレイヤーがゲームを始めた時に楽しさを期待して、やっていくうちに楽しさに対する確信度がどんどん更新されていくというのはまあそうだろうと思うんです。一方で見返りって宗教的に言うと「善なる行為みたいなことをする時に、自分は神の国に行くのだという見返りを得ようとすることは非常にあさましいのではないか」というのが、神学とかキリスト教ではスタンダードな問いテーマだと思うんですね。だから見返りの話に、スルっとしてしまっていいのかなというのが、素朴に分からなくて。そこはどう吉田さんが考えているのか聞きたいです。

吉田:「見返り」はイーグルトンの言葉ではなくゲーム研究の語彙です。見返りはゲームを続ける、繰り返すための重要な要素ですが、ゲームはあくまでもそれ自体が楽しい活動なので、必ずしも見返りのためにプレイしているわけではないと思います。なので私もそれほど強調していないように思うのですが、どこか気になる箇所、見返りを強調していながら上手く説明できていないといった箇所がありましたか?

井上:吉田さんのテキストに従うと「ゲームをやることによって楽しみを得る」という、そういう自分の幸福みたいなことを期待してその場にコミットメントしていくわけですよね。やっぱりそれは自己利益と結びついてしまう側面はあると思うんです。そこを肯定するのかどうかというのは、宗教の信頼の話をする時に繋がっても大丈夫かというのが理解として不安になった、という気持ちです。

吉田:宗教にも色々なタイプがあって、例えば現世利益を強調する宗教もあれば、生きていること自体が見返りだとする宗教もあるわけです。それはゲームと宗教のアナロジーを考える時には重要な論点になります。おっしゃる通り、見返りの求め方の多様性という点で、人生を楽しむこととゲームを楽しむことは似ているなと私も考えていますが、そこはあまり掘り下げたくない論点で、というのもよく分からないからなのですが、私は必ずしも宗教のモデルにこだわっているわけではありません。見えないものに対する確信を、われわれが日頃から実践しているということをクリアに説明する理論が他にあれば、イーグルトンでなくともよかったわけです。

もちろんある程度は社会科学的に記述可能なものでもあると思うんですよ、コミュニティのようなものを持ち出せば。社会のなかには非明示的で記述されていないような習慣やマナーがたくさんあって、実はそれらがルールや法の基盤になっている、というように。でもやはり社会科学が最終的に何らかの合理的基盤に行き着くのに対して、われわれはそうではない仕方でゲームをプレイしているはずなんですよね。だからそれを説明するには宗教のモデルがいいんじゃないかなという気持ちは今もあります。

井上:ありがとうございます。今吉田さんに補っていただいたように、社会の中で法とか制度とか慣習とかが整理されていくプロセスってなんなの?みたいな話とか、そういったものは、社会科学やゲーム理論の成果としてあるのだが、それは合理性の世界だから違うのではないかという話ですよね。

吉田:はい。

井上:三宅さんどうですかね、今の話を受けて。

三宅:例えばオンラインゲームプレイしてて、一緒にプレイしている人がチートツール使ってましたって時にムカっと来る人も多いかと思うんですね。あれなんでムカっとくるのでしょうか。あるいは、ある映画を2倍速4倍速で見る人がいると聴くと、その映画が好きな人にはイラっと来ることがあるわけです。その時にイラっと来るのはなぜでしょうか。別に自分にとって不利益はないわけですけど、何か嫌な感じがする。これは、そういう本来そこで共有して共感することで結びつくはずの人が、全然それに対するリスペクトを持っていないことに起因するかと思います。

自分にとっては新しい世界を与えてくれたマスターに対する崇拝っていうのがあると思うんです。そういう作り出した人、創造主に対する崇拝みたいなのはどうしても受け手側には生まれてしまって、そういうものは確かに宗教的な共有感と似ているなと。そういう感覚を呼び覚ますものとしてのコンテンツというものが、現代人の心の空白を埋めていたっていうところがありますよね。そこにおいて類似性はあるんじゃないかなと思いました。

吉田:ありがとうございます。そのイラっとするっていうのは大事な感覚で、何も損なわれてないにもかかわらず、やはりイラっとする。それはなぜかというと、自分の価値が他人にも共有されていると思い込んでいたのに、実は共有されていなかったと気付くことにイラっとするわけなので、相手が悪い、作品が悪いというよりも、自分が傷つけられた気分になるわけですよね。最近すぐに「傷ついた」とか言いたがる人が増えているのは問題だと私は思いますが、やはり他人の行為によって自身の価値が損なわれることに対してわれわれはかなり敏感なんですよね。

そもそも相手を信頼しているからその相手の行為によって自分が失望したりするわけで、まったく価値観が違う人同士であればそういうことも生じない。そういう意味ではわれわれが日常的に経験するような他人との関係も、信頼の問題として理解できるんじゃないかなと思います。

井上:確かにそれも信頼のポイントになる気はしますが、信頼と言った時に概念自体が色々な側面を持っていると思うんですよね。吉田さん自身4章の7のところで、自己への信頼、他者への信頼、世界への信頼と区分けをされていらっしゃいます。同時に区分けも可能なんだけれども、先ほどからおっしゃっていただいている通り、無根拠なものとか、将来の予期が必ずしも働かないところにコミットするっていうタイプのものを信頼と呼んでいるわけですよね、ここで最も重要なキータームとしては。そこがなんというか、ちょっとずつタイプの違う話なような気がして。

吉田:ゲームを遊ぶときに、この3つが同時に成立していなければならない、ということについては井上さんも同意されますか? あるいは少し違うお考えですか? われわれがゲームを遊ぶことには、それぞれ違うレベルにあるかもしれないけれど、その3つの信頼が含まれている、ということを言いたかったんですよね。

井上:おおむね分かります。一方で宗教的なコミットメントみたいな話だと、見返りの問題をやっぱり考えてしまうんですけれど、他者がたとえ自分に好意を返してくれなくても世界に対して自分は良き人間であろうとするみたいな話を想像してしまっていて。

吉田:いや私も、合理的なものが基盤にならないとは考えていません。ただ非合理的なものは常に残っているはずだから、それを否定するのは現実に起こっていることとは違うよねということが言いたいだけです。

井上:結構合理的な気がするんですよね、吉田さんが挙げられている3つ、自己への信頼、他者への信頼、世界への信頼は。

吉田:また先ほどの「予期できないものに賭ける」という問題ですが、そもそも予測とは人間の計算能力の問題でもあるから、確率統計のような分野で説明することもできると思うんですよね。だから私も最終的に合理的根拠の存在を否定したいわけではなく、単純に、通常の意味でのルールを超えるようなレイヤーがあって、そこにわれわれは現にコミットしているわけだけど、そのレイヤーが何なのかということに興味があるんですよね。そこにアクセスできるような理論や方法があればそれを持ってきてもいいと思うんです、イーグルトンでなくても。

井上:ちょっと分かってきました。多分ユールの『The Art of Failure』の論理展開に関わる解釈の問題でもあると思うんですね、僕がしっくり来てないのは。ユールが『The Art of Failure』の中で言っている重要なパラドックスっていうのは、負けるとか不快なはずのことにコミットメントしてしまうプレイヤーはなんなのかと。それは非常にパラドキシカルだし、変わった存在であると。そういうことも受けて、ゲームプレイヤーっていうのが合理性の外側にあるというようなニュアンスで、自己への信頼っていう話がここで書かれているっていうことですよね、多分。

吉田:はい。

井上:そうなったときに、これは吉田さんというかユールの『The Art of Failure』に僕が同意しているかどうかっていう別の話になってしまうんですけれど、僕は合理性のレイヤーっていうのが複数レイヤーあると思っていて、短期的には不快だと思ったりしても、中長期的にはトータルで楽しかったとかありますよね。「不快だけども、これをやりたいと思っていたんだ」っていうタイプの、別々の合理性のレイヤーを同時に発動させているのが人間の行動だと思っているんですよね。なので、ゲームをプレイするっていうのは一見パラドキシカルな状況はあるけれども、トータルで本当に耐えきれないほど不快だったらやっぱりゲームをやめると思うんですよ。

 一方で宗教的な問題は耐えきれないほどの不快が襲ってきた時に、それでも世界を信じようっていうレイヤーの不合理性に対する向き合い方だと思います。だからやっぱりゲームの話だと、結構合理的な決断なんじゃないかと思っています。そこで不合理なものへのコミットメントと言っても、話のレイヤーが違うのではないか、ということなんです。

吉田:ところで第6章はお二人とも読まれましたか? 第6章「ゲームと公平性」でも似たような議論を展開していて、そこで私は、ギャンブルにはまる人は、ある種の社会批判をしているのだ、「病的」ギャンブラーと呼ばれる人たちこそが実は「社交的=社会的(ソーシャル)」なのだと、けっこうとんでもないことを言ってしまっています。

それと第4章の「ゲームプレイと他者への信頼」は響き合っています。ゲームにハマる人は、ゲームのなかでの競争が公正で、やりがいがあると考えている一方で、現実世界の競争——仕事や勉強——は不公正でやりがいがないと感じている、ということがありえます。そのような場合には、ギャンブルやゲームにハマることはその人なりの公正性の担保になっているといえて、それはそれで一つの社会的営為だろう、というのがこの第6章での私の主張です。

どういう競争が適正だと思うかは、人によって違うし、年齢や発達段階によっても違うし、おそらくはそれぞれの人が生きている社会の仕組みによっても違うと思うんですよね。そうしたことを学ぶ場としてゲームがある、ということは既に文化人類学や経済学などの分野で言われていることで、社会への信頼とはそういうことを含んでいます。

あるいは自分が信頼していた価値が毀損されたときにわれわれは怒り、怒りを感じますが、そのときの怒りというのは自分と社会の両方に同時に向けられた怒りなわけですよ。例えばゲームプレイヤーがゲームの台を激しく蹴るようなときも、その人のプライドや世界への信頼が損なわれたからこそ、そのような激しい怒りになるわけで、それを単に愚かな行為として片付けてはならず、一種の社会批判として見なければいけないだろうと。それが私が第6章で言いたかったことです。だから第6章では連帯や信頼という言葉は主題になっていませんが、全体として言いたいことは第4章と共通しています。

ベイズ推論とゲームへの信頼

井上:なるほど。三宅さんどうですかね、この話色々なところに展開できる話かなという気はするんですけれども。

三宅:社会性っていうのは、例えば引きこもりの話が本文にあったんですけれども、引きこもりの人がオンラインゲームするっていうことは、、引きこもってないのではないかと思うのですね。引きこもりって普通は色々なものを拒否すると思うんですけれど、オンラインゲームをする、マンガを読む、つまり1つのルールに従っていることは、同様なコンテンツを楽しむ人たちとの社会的つながりがあるとも捉えられるかと思います。

例えば『スペランカー』(Tozai Games)ってご存知の通り、ちょっとした段差で落ちたらやり直しになってしまう。あれって合理でも不合理でもないわけです、ゲームの中だったら。でも何回もやるとそういうものだって分かるんですね。こういうある事象が起こったときに、その原因となる現象を推定することをベイズ推論(ベイズ推定)って言いますけど、要するに起こったことの原因をそれから逆算して、あ、これは段差から落ちたらショックでゲームオーバーになってしまうルールを受け入れていくわけです。ゲームが強いてる秩序みたいなものを受け入れるってことで、実はプレイヤー同士が同じルールを受け入れて連帯している感があります。

本文の中で、テニスゲームを1人でしてたけど、実はこれは他の人もプレイしていると思うと時に全く違うゲームに見えてきた、というエピソードがあったと思います。それはゲーム世界の秩序を受け入れている人が他にもいるんだということの認識ですね。その認識によってプレイヤーたちが結びついていく。実は案外人間って、世界のルール、世界の不条理性を受け入れることで結びついているんだと。そういうことによって、社会性っていうのは発現していくんじゃないのかなと思いました。

吉田:今出た推論という言葉は非常に重要で、さきほどの井上さんの発言のキーワードでもあったと思いますが、「推論を諦めない」ことが私がここで言っている信頼なのかもしれません。

デジタルゲームの特徴として、ルールが事前に可視化されていないことや、ルールを推論で探っていくことがあげられますよね。デジタルゲームをプレイすることは、トライアンドエラーを繰り返しながらルール(あるいはメカニクス)を特定していくという作業になる。そうすると「ここには何らかのメカニクスが存在するだろう」というかたちで原初的な信頼が生じますよね。次に、そのゲームは公正な競争、適正な見返りを与えてくれるだろう、というルールやメカニクスに対する信頼が生じ、さらには、自分と同じ感覚を他のプレイヤーも共有しているだろうという、他者に対する信頼も生じる。でもそうした他者に対する信頼はゲームメカニクスを経由した信頼なので、同時に世界に対する信頼でもあるわけです。しかしこのような信頼の連鎖が生じるためには、見えないけど何かそういうものがあるだろうという、最低限の「推測しがい」がないといけないので、そのような推測をいざなうような仕組みが、私がここで言っている信頼というものなのかなとも思います。

井上:ありがとうございます。三宅さんに推論の話をもうちょっと詳しく伺えればと思うんですけれども、帰納とか演繹みたいな推論に対して、ベイズはどういう風に違うのかというのを、もう少し敷衍していただいてもよろしいですか。

三宅:ベイズ推論は時間的因果関係に関する推論で、例えば芝生が濡れた時に、じゃあ昨日は雨が降ったのかと事後推論する、つまり起こったこと(事後)からその原因を推論する。でもひょっとしたら、スプリンクラーが故障して水巻いちゃったのかもしれませんよね。それで芝生が濡れている時に、雨かスプリンクラーかどっちっていう原因が推定される。80パーセントは雨が降ったんだな、でも20パーセントはスプリンクラーが故障したかもしれない、これがベイズ推論ですね。

ゲームの場合はとりあえずプレイしてみる、プレイしてみて何か起こると。ここの宝箱を叩けば開いた、開く前に特殊な剣で叩いた、だから何かが変わった、ということに気づいていく。そういう経験から自分のするべきプレイを学んでいくっていうのはベイズ推論的です。それが何回も重ねるうちに、これ剣じゃなくて蹴っても宝箱開くじゃんみたいな風に、繰り返される事象があればあるほど確率が高まっていく。

それは吉田先生がおっしゃっていた世界への信頼でもあって。『スペランカー』も、特定の面だけ落ちたら死なないってなったら、さっきまでのステージの死は何だったのかってなるじゃないですか。でも『スペランカー』は1面から最終面までちゃんと落ちたら死ぬようになっている。それがどこかの面だけそうじゃなければ、ゲームに対する不信みたいなものが起こる。あるいは自分自身に対する不信、俺はこのゲームを誤解していたのかみたいな感じになってくると思うんです。そうすると世界に対する信頼も自分に対する自信もどんどんなくなっていって、いいや面倒くさい、もうゲームやめよみたいな感じになるっていうのは、あるんじゃないかなと思いますね。

井上:ありがとうございます。今聞きながら、非常にしっかりまとめてもらえた気がしたんですけれども。未確定のものに対するベイズ的推論的なものっていうのは、ゲームプレイの中で普通にあるプロセスですよね。一方で、ルールが突然変わってしまうようなタイプの不合理性っていうのは、ゲームの中の一般的なものとしては想定されていない。僕が先ほどから吉田さんにコメントしていた宗教みたいな話は、不合理性のレイヤーとか明らかになっていないもののレイヤーが、ルールそのまま変わっちゃうみたいな話と、まだ見えていないみたいな話と両方入っているんじゃないですかねと、そういう話だったと思うんです。というので、三宅さんに良い整理をしてもらったなというところで、吉田さんどうですか。

吉田:私が考えていることとも整合するお話でした。そのうえで私としては、推論や確率の話を持ち込むことで、どこまでゲームの面白さを説明できるのか、あるいは先ほどのベイズ推論などがゲームプレイの説明としてどこまで使えるのか、ということが気になりますね。

ゲームプレイヤーと社会性

吉田:少し別の角度から言うと、私がこの章で主張したことは、ある意味では十分に学問的な裏付けのある「正しいこと」とも言えるんですよ。というのも例えばジャン・ピアジェなどの教育学者が昔から遊びやゲームに注目していて、ビー玉遊びは青少年の道徳感情を育むということを既に言ったりしているんですよね。その意味では、私のこの論文は、それと同じことが実はシングルプレイが前提の現代のコンピュータゲームでも言えるぞ、と言ったに過ぎないのかもしれません。

井上:なるほど。おっしゃられていることは全然分かるというところはありつつも、発達心理とかの話で、子どもがごっこ遊びとかおままごととかですよね、ああいうのをやりながら他者っていうのがどのように行為したり期待したりするかっていうことを考えるみたいなことと、道徳感情みたいなものの発達っていうのが絡まっている可能性が高いよねっていう話は言えると思います。ただごっこ遊びとかは言えるんですけれども、シングルプレイだとそれが言えるかどうかはちょっと良く分からないなというのが正直あって、ゲーム一般に言えるのかどうかはちょっと難しいかなくらいの気はしますね。

吉田:私がこの章の冒頭で引用したカイヨワの主張に、「一人遊びにも潜在的な競争相手や観客がいる」というものがありますよね。この章で私がやった作業は、このカイヨワのテーゼをコンピュータゲームやネットワークで繋がった現代社会へと拡張してみることだった、とも言えるんですよね。ですからやはり一人遊びをしていても、それが楽しい遊びとして経験される以上は、そこに潜在的な競争者や観客がいると考えていいんじゃないでしょうか。

井上:ただ僕は、カイヨワのその潜在的な他者を想定しているって話はだいぶ昔から疑わしく思っていて、例えばパンチングマシーンとかで、130キロとか160キロとかそういうのが出てくるのは「潜在的な他者を想定してますよね」って言われたら、確かにあり得る話だと思うんですけれども、例えばヨーヨーとかになるとだいぶ怪しくなってくる。それこそプチプチ潰すみたいなのとかあるじゃないですか。プチプチで潜在的な他者は存在するのか?っていう気は結構していて。

吉田:それが遊びかどうかということも問われますよね。プチプチを潰すことは手癖のようなもので、カイヨワの4つの分類には入っていないですよね。

井上:まあイリンクスですよね、カイヨワで言ったら。ブランコみたいな。

吉田:プチプチを潰すのがイリンクスというのはちょっと納得しかねますが、まあ今日の話題からは離れますのでまたどこかで本格的に議論しましょう。

バグに基づく共有経験

三宅:やっぱりゲームユーザーっていうのは、ゲーム世界の制限とか境界とか、ルールを侵すことを許さないのではないのかな、と思います。特に自分の好きなゲームに関しては。だからチートっていうのは許されない、それはゲームに含まれていないからです。一方で裏技は許される。例えば「名古屋撃ち」は、多分正規のゲームの遊び方とはちょっと違うかなっていうものなのに、全国的に受け入れられたわけですよね。あるいはマリオ無限1UPも。でもチートは絶対許さんみたいな感じになっちゃうんですよね。そういう風にユーザー間でも色々なものがどう共有されるかっていうは、一種の社会性があるのではないかと思います。

同じゲームをたくさんの人がやっていろんな探求がそこでされると。それは先ほど吉田さんがおっしゃった、潜在的な共有ユーザーみたいなもので。『スーパーマリオ』なんか1人でやるゲームだけど、みんながあそこにツタがあるよとか、あんな裏技があるよとか、マイナス面行けるぜみたいなものが共有される。それは1つのゲーム世界をみんなで共有しているっていう感覚があって。奇しくもゲームの傷、裏技、バグがゲームユーザーを実は繋いでいる。例え対戦ゲームでなくても、たくさんの人が同時に探求していって共有されていく。そういうプレイして見つける、共有するっていうところがゲームの社会性みたいなものを作り出しているんじゃないかと思います。

井上:社会性、共有体験みたいな話ですよね。

三宅:そうですね。同じ世界をプレイして、いろんなものを見つけたっていう経験が共有されるっていうことが嬉しい。あるいは自分が見つけていないものを彼が見つけた、でも自分がそこに行くと同じように再現できる。これはゲームの中の範疇だから可能なわけですよね。これがチート技の場合は自分が再現できない、それはゲームではないっていうので許しがたい。

井上:『ドラクエⅣ』の裏技で、ファミコン版の『ドラクエⅣ』だとカジノに行った時に、コインを838861枚みたいなのを受付の人にオーダーすると、なんと4ゴールドで買えてしまうっていう裏技があって。処理の問題で数をオーバーフローしてしまうバグを上手くユーザーが利用したやつで、これは結構僕の同世代のドラクエプレイヤーはみんなやっていた記憶があるんですけれども、これは共有体験でチーティングとは違うっていうことでいいんですかね。

三宅:そうです、それは誰もが繰り返せるから。そしてそれを誰かが見つけたということは、たくさんの人も自分と同じようにプレイしてて、自分も見つけられる可能性があったし、自分もそれを実現できるから納得できる。さらに、他の人が見つけたという、社会的連帯感があるってことなんじゃないかと思います。

吉田:今三宅さんが言われたことは、今日ここまでの議論をゲーム文化の意義やゲーム研究の意義に接続する、いいお話だと思うんですよね。『スペースインベーダー』の名古屋撃ちでも、『ゼビウス』の隠れキャラの発見でも、「みんなで攻略する」という点が重要で、ゲームセンターでの口コミやコミュニケーションノートを通じて、裏ワザやバグといった情報が共有されることで、日本のゲーム文化のなかでコミュニティが初めて出現した、と言われていますよね。

「みんなで攻略する」ということは、「みんなにとって高い確率で現れる現象をみんなで探究する」ことですから、それはまさしく、ここで私が言っている信頼に基づくコミュニティと完全に一致していて、日本のゲームセンターは過去のある時期において、まさにそのような場だったと言えますよね。ですので、先ほどのご指摘は、今日の結論に向かう、とてもよいものであると思います。

RTAのレギュレーションについて

吉田:もう一つ、井上さんが『ドラクエ』に言及されたので思い出したことを。RTA(リアルタイムアタック)という文化が今あるわけですが、そのなかでは『ドラクエ』のようなRPGも対象になっているんですよね。RTAではいわゆるチートは禁止なのですが、ゲームの中で必ず再現されるようなバグも、レギュレーションで禁止しているRTAの競技が多いです。つまり、「必ず再現されるバグ」だからといって、すべてが「正しいゲームプレイ」と認められているわけではない、ということです。RTAはいわば「ゲーム作品の再構築」をやっていると私は考えているのですが、その際、バグが「取捨選択」されていることは興味深い現象です。そのゲームが世に出てから何十年も後になって、「正当なバグ」と「不当なバグ」を区別するかたちでゲームのルールが再設定され、多くのプレイヤーがそこで競争しているというのは、まさに本日の主題である信頼の話と繋がるかと思います。

三宅:一般的にいろんなゲームがリメイクされる中で、バグを取っていいのかダメなのか議論ってあるんですよね。バグであれば本来取るべきですよね、たとえばマリオの無限1UPなど。しかし、それはもはや文化になっているので、それを取っちゃうと違うよみたいな意見が出る。バグも含めたそのゲーム世界がユーザーのものになってしまっているのですね。ゲームはリリースされた時に、ユーザーの中でバグも含めて受け入れられちゃっている、愛してくれてしまっていると、バグを取っちゃうと違うみたいな感じになってしまう。そこも面白いかなと思いますね。

井上:そこすごい面白い論点だと思うんですよね。信頼っていう話を広げてしまいますけれども、一般社会における法とか慣習っていうのは、短期的には固定されているものなんだけれども、中長期的にはそれを修正する正当な手続きによって修正することが可能なものになっています。改正のためのルールもある。だけど、ビデオゲームの場合、それを変更するための正当な手続きみたいな概念っていうのは、ビデオゲームにはあんまりないわけですよね。そういう性質のルールを持っているのが、ある意味ビデオゲームっていうメディアの信頼を構築していて。

一般社会の場合ではそのルールが不条理と思ったら変えていいっていう、変化できることに対する信頼があると思うんですけれども、ビデオゲームって変化させることに対する信頼の出来る手続きとかっていうものを持っていない。だから変化の仕組みを信頼するっていうことはビデオゲームプレイヤーの場合難しいかもしれないので、引きこもっている人を肯定するっていう話は素晴らしいと思う一方で、ビデオゲームの持っている限界もあるかなと思うところはありますね。

三宅:オンラインゲームだと特にパラメータを後から変えるわけですけれども、それは大体色々問題を引き起こします。元のパラメータでいろんなカードを購入した人はどうなるんだ、と言ったような。このカードが強いと思ってやったけどパラメータ変更で自分のカード弱くなってしまった、ということがあるので、井上さんがおっしゃる通りとても難しい問題ですよね。

吉田:いまの井上さんの整理はすごくおもしろいですね。社会のなかの法や慣習は変更に開かれていて、だからこそ信頼されるという側面があるわけですが、逆に、デジタルゲームの場合は製品化された時点で基本的に変更不可能で、しかしだからこそ多くのプレイヤーから信頼されているわけです。どちらも信頼されるわけですが、両者の信頼が果たして同じものなのかどうかはよく考えなければいけないなと。つまり「変更可能なものへの信頼」で成り立つ社会関係と、「変更不可能なものへの信頼」で成り立つ社会関係は同じなのか違うのかと。井上さんの整理のおかげで、そうした問いの存在に初めて気づきました。

井上:ありがとうございます。重要な論点がいくつか提出できたところで、時間的にもだいぶ話したかなという感じになってきました。これ結構尽きない論点があると思いますので、まだまだ色々議論していければ楽しいかなと思います。ちょっと見ている方も多分長いなという感じがしてきたと思いますので。色々な形でやっぱりゲームスタディーズみたいなものの面白さみたいなものの一端でも少しは感じてもらえればいいなと思いつつ、本日は、このくらいで一旦閉じたいと思いますが、最後にコメントをみなさんからいただきたいと思います。

まとめ

三宅:最近のゲームデザインは非同期コミュニケーションが一つのキーワードかなと思っています。例えば『デモンズソウル』(フロム・ソフトウェア、2009)『エルデンリング』(フロム・ソフトウェア、2023)で人のプレイの分身が見えますよね。それってさっき吉田さんが言っていた、シングルゲームなんだけれど他のゲーマーがどんなことしているかが間接的に伝わってくるツールなんですよね。あれは1つの発明で、あるいは血文字システムも含めて、1人ゲームなんだけれどもどこか知らないユーザーが書いた文字が自分のプレイの中にある、ここから先キケンとか書いてある。そういう繋がってないけど繋がってるくらいの雰囲気って、さっき同じゲームをみんなでやってる感を出す装置として機能してるんじゃないかなと思いました。

井上:すごくいろんな論点がお話出来て、読んだ後に著者の本人と話すと、なるほどそういうことかと理解が深まって、今日面白かったです。一方でまだ積み残した話、意外と話せなかったポイントも結構あるので、また別のところで是非お話しできればと思っています。

吉田:今日は私の『デジタルゲーム研究』から一つの章を取り上げて議論したわけですが、研究論文というよりは自分の主義主張や信念をそのまま書き連ねた性格が強い章だったので、自分がうまく言葉にできていなかった論点や問題意識に、お二人から色々言葉を与えていただいて、とても良かったなと思います。これを踏まえて私自身も引き続き考えていきたいと思いますし、なによりDiGRA会員の方々とぜひ一緒に考えていきたいんですよね。この本は、ゲーム研究にはこういう面白い問題や論点があるということを紹介し、共有したいと思って出した本なので、そういう意味で、今日の議論がこの本から始まる議論の場作り、それこそ信頼に基づくコミュニティ作りのとっかかりになれば、本当に嬉しいです。またDiGRA会員以外の、この動画を観ている皆さんや記事を読んでいる皆さんとも、ぜひいずれどこかで意見交換をしたいです。本日はありがとうございました。