投稿日:2022年12月12日 / 更新日:2022年12月12日


立命館大学ゲーム研究センター2021年度 第4回定例研究会 (2022年3月16日18 :00)

(参加者)
川﨑寧生(立命館大学ゲーム研究センター 客員研究員)
鴫原盛之(ゲームメディアSIG代表、フリーランス)
小山友介(理事、芝浦工業大学システム理工学部)
毛利仁美(立命館大学大学院 文学研究科 文化情報学専修)

(司会)
井上明人(立命館大学映像学部 専任講師)
・text:鴫原盛之

( ゲームスタディインタビューズ担当)
 三宅陽一郎(広報委員)

井上:それでは、ここからは議論を始めていきたいと思います。まずは鴫原さんのほうから、あらかじめご準備いただいていた質問があるかと思いますので、よろしくお願いいたします。

鴫原:ライターの鴫原と申します。私のほうでも、川﨑さんが著書を出版される前に書かれた博論をたいへん興味深く拝読させていただきました。まずは川﨑さんがゲームセンター史をテーマに研究をしようと思ったのはなぜなのか、その動機から教えて下さい。

川﨑:ちょっとお話が長くなりますが、私が大学院に入ったときはゲーム史を、将棋史との比較をした多様なゲーム史の研究をしようと思っていましたが、そもそも歴史学でゲームを扱うには時間がまだまだ足りないという問題がありました。

その中で自分の研究、即ちゲームに関わるようになった原点を考えていくと、自分のゲームプレイの原点はゲームセンター、特に駄菓子屋のゲームコーナーにおけるコミュニケーションが主体でした。ただ、当時のゲームセンター研究を見ていますと、本書の前書きにも書いたのですがほぼゲームセンター、つまり独立した店舗が主体で、多様な店舗形態に着目したものはほとんどなかったんです。

駄菓子屋などのゲームコーナーとゲームセンターとでは、空間そのもの、遊びの在り方、それらの形成のされ方も違いますので、ゲームセンター全体を調べていくうえでは、これらの店舗形態すべてを包括的に考える必要があるのではないか、と素朴な疑問がわいたので、じゃあ全体を見てみようということで、このような研究を始めることしました。

鴫原:私からも素朴な疑問がひとつあります。川﨑さんが、いざゲームセンター史の研究論文を書き上げたところで、その内容を理解して査読、指導ができる先生方がそもそもいらっしゃるのでしょうか? ゲームの研究ができる教育環境が、現在の大学や大学院では整っているのでしょうか?

川﨑:ゲームの研究をしている方はたくさんいらっしゃいます。特に、私の研究のきっかけにもなった加藤裕康先生が「ゲームセンター文化論」という形で、日本のゲームセンターのコミュニケーションノートを題材としたコミュニケーション空間の広がりを分析した本を出されたりしています。

ほかにも「プリクラ」の女子高生のコミュニティの研究など、コミュニケーション空間の研究がすでにありますし、対戦格闘ゲームプレイヤーのコミュニケーション文化の研究ですとか、ゲームセンターに着目した研究は結構されていまして、それに対して理解をお持ちの方もかなりいらっしゃるかと思います。ただ教育環境については、実際に教壇に立たれている方は、あまりいらっしゃらないのが実情ではないかと思います。

鴫原:私事で恐縮ですが、私もゲームの研究がしたくて大学に進学したのですが、いざ卒業研究を始めるタイミングになったら、指導教官から「そんな研究は誰もやったことがない」とか「研究をしても審査できる先生が誰もいない」とか言われて、研究をさせてもらえなかった苦い思い出があるのですが、まさに隔世の感がありますね……。それから、川﨑さんが本研究で学位を取得されるにあたり、先日亡くなられた元任天堂の上村雅之先生から指導を受けていたと伺いました。任天堂(任天堂レジャーシステム)でアーケードゲームビジネスに関わった経験をお持ちの上村先生の存在は、やはり大きかったですか?

川﨑:はい、それは間違いないですね。以前に私がいた大学でゲーム研究をしようと思ったときに「さすがにそれは難しい」と言われて、初めに静岡大学の赤尾晃一先生を紹介していただきました。その後、赤尾先生に直接お話を聞いたところ、赤尾先生からも「難しい」と言われてしまい、「じゃあ立命館大学で、まさに今それをやろうとしている上村先生がいらっしゃるから、そちらに行ってみたらどうか」と、今度は上村先生をご紹介いただいたんです。

上村先生にメールをお送りしたところ、快いお返事をいただきまして、任天堂にお招きいただいていろいろお話をしたのがきっかけで、上村先生に指導教授になっていただきました。先生はゲームセンター、アーケードゲームを含めて、すべての知識を深くお持ちで詳しい方でしたし、良い意味で全体的に学術を意識せず、かつ学術もうまく語れる非常にいい先生でしたね。もうひとりの指導教授である、吉田寛先生にもご協力いただけたことで、非常にスムーズに研究することができました。

 また資料に関しても、上村先生のご尽力がなければ見られなかった資料もかなりありましたし、そういった意味でも非常にありがたかったと思います。

鴫原:川﨑さんの研究では、駄菓子屋などの子供向けゲームコーナーや、喫茶店のフィールド調査が非常に重要なポイントになったと思います。これらの調査対象となった店舗、あるいはそのスタッフはどうやって探したのでしょうか?

川﨑:まずは昔の雑誌に載っていた店を調べたのですが、現在も営業を続けている店はほぼほぼ無かったので、インターネットで店の住所などを調べて、筐体(ゲーム機)が置いてあったかどうかを電話などで確認したり、実際に行って確かめたりしました。実際にお話を聞いた方のほとんどは、私が直接出掛けたうえでお聞きしました。

喫茶店に関しては、都合で直接お話を聞くのが難しかったので電話で聞くことが多く、駄菓子屋のお話はほぼ直接出掛けてお聞きしたのですが、自分から出掛けて皆さんの空いた時間にお話を聞かせていただくのが重要だなと思いましたね。直接お会いしないと、なかなかお話を聞かせてくれないですし、電話だけでは「なんや?」と思われてしまうこともありましたので。

鴫原:今回の調査では全部で何軒のお店、または何人の方に取材したのでしょうか?

川﨑:喫茶店、駄菓子屋ともに、だいたい2ケタぐらいですね。ほかにも、論文では参考にできなかったのですが、継続してお話を聞いた方も何人かいました。

鴫原:ゲームセンターが、社会にどのように受け入れられたのかが本書の重要なテーマですが、ここでまた素朴な疑問があります。川﨑さんが調査をされた喫茶店や駄菓子屋の皆さんが、そもそもゲームセンター、あるいは自分の店に筐体を置くこと自体は好意的だったのでしょうか? あるいは「本当は学校などからクレームがきたりすると困るけど、筐体を置いておけば儲かるし、生活のために背に腹は代えられない……」などと、いやいや置いていたのでしょうか?

川﨑:「儲かるからいいや」と思っていた方がほとんどで、いやいやながらに置いていた方はほぼいなかったです。その中には、だんだんゲームに詳しくなって、置いてあった基板のタイトルをある程度把握されていた、ご年配の店主の方もいましたね。また岡山県の一部の店舗には、リース業者がもう音を上げて「撤退したい」と言ってきたのに、「まだ儲かるし、置いといたらええやん」と、そのまま筐体を譲り受けたけど、新作ゲームがそもそも出なくなったので、さすがにあきらめたという事例もありました。

全体的には、ゲームに対してほとんど好意的でしたが、私の知り合いで1人だけ、散髪屋の上の階で喫茶店をしていた方が、インベーダーブーム期に「スペースインベーダー」などのビデオゲームをいろいろ入れたのですが、女性客がそれを見て賭博機か何かと勘違いをして、「これ、お金が返ってこないやん」などとクレームを受け、それで怖くなって「ゲームはもう置きたくないと思ってやめたわ……」と話していました。こういうケースは、当時のインベーダーブーム期には、ほかにも可能性があったのではないかと考えております。

鴫原:必ずしも「儲かるからいいや」と思って、ゲーム機をいやいや置いていたわけではなかったというのも、面白い発見のひとつでしたね。もしかしたら、本の中でも追記しておいたほうがよかったかもしれません。

川﨑:そうですね。当時の喫茶店のお話はだいたい書けたのですが、今のお話は確かにあまり書いていなかったですね。

鴫原:本インタビュー前に川﨑さんが行った発表では、「研究の今後の課題と展望」として4つの項目を挙げていましたが、私からは特に、今後はメダルゲームの研究もぜひ進めていただきたいなと思いますね。今はコロナ禍もあって苦しいようですが、メダルゲームは昔からゲームセンターにとって大きな収入源になっていますし、川﨑さんが参考文献にも挙げていた眞鍋勝紀さんの本にも書かれていますが、「ゲームファンタジアミラノ」の誕生を機に、メダルゲームがどんな客層に受け入れられたのかも大事なポイントなので研究すると面白いと思いますが、メダルゲームの研究をするにあたり、博論の段階で何か大きな問題があったのでしょうか?

図1、2:川﨑氏の発表資料「研究の今後の課題と展望」より

川﨑:メダルゲームに関しては分量が多過ぎて、すでになくなっていったものの中で顧みられていないものも多く、何がどのように稼働していたのか、全体像がつかめない問題がありました。ビデオゲームと比べても、状況が把握しにくかったというのが実情で、特に昔のプッシャータイプとかスロットとか、今も稼働しているケースがかなり珍しいです。例えば競馬のゲーム、今でも「スターホース」とかがありますけど、昔のように馬の人形が動くタイプのメダルゲームとかが、今でもたまにですが見掛けますが、過去にはこれらのゲームがどれだけ動いていて、どのように遊ばれていたのか、話を聞くのが現状ではかなり難しいなと思いますね。

 あとは、ラウンドワンが出てきた以降に、メダルの価格が乱高下したことがありましたよね? そういったことの影響も見ていきたいのですが、どういうタイミングで、どこに聞けば実態をつかめるのか、また調べてみなくてはと思っているところです。

鴫原:古いマスメダルゲームは場所も取りますし、メンテナンスも非常に手間が掛かりますし、そもそも現物が残っていないので、今から調べるのは確かに難しいですよね……。では、ほかの先生方からも、何か質問などはございますか?

小山:それでは、私のほうからは雑ですけど、資料を作りましたので画面共有して簡単にお話をさせていただきます。ゲーム産業にはいろいろな市場があり、全体の歴史の研究にはいろいろなアプローチがあって、私が以前に一度書いた本(※筆者注:「日本デジタルゲーム産業史」のこと)は産業史ですけども、ほかにもデザインや美術、文化や社会史など、ほかにも思い付かないものがいろいろあります。

図3:本研究の学術的意義(小山氏作成)

 この研究の学術的な意味ですが、まず社会史としての部分、第2、3章の部分が社会構成史ですよね。それから、どのように遊ばれてきたのか、デザインにしての話も一部ありますが、主に場所についての話が第4~7章にあると。ゲームというのは、研究の蓄積がすごく薄いところでもありますし、この場所はもう完全に空いていたんですよね。ですから、まずはこの部分を埋めたのが非常に貴重なお仕事になったと思います。

 社会的な意味で言いますと、私の本でも最後のほうで書きましたが、ゲームは社会的に 害悪なんだという議論があって、昔はゲーセン、一時期はファミコン、最近ではスマホみたいに、メディアを変えて繰り返し出てくるんです。ただ、それが本当に敵なのか、今も敵なのかは、研究者が真面目に調べていないのが現状なんですね。

そんな中でも、ゲームセンターはちゃんと社会に定着している健全な娯楽であり、コンピューターゲームの前の時代も含めると半世紀か、それ以上の重みがあることを示した本なので、今後もゲームを社会的に擁護するときの基礎的な文献として多分残るだろうと思います。

 率直な感想といたしましては、拙著からいっぱい引用していただいてありがとうございますということと(笑)、特に最初のゲームの誕生の章では、過去の文献も含めてまとめていただきたいへん恐縮です。多分、私の本では、いわゆるエレメカから半導体を直に組み込んだだけのゲームを経て、CPUがあるゲームに移ったという議論しか書いてなかったのですが、丁寧に研究していただき、私の本では抜けていたところも埋めていただいたので感謝しております。

 ここからは質問というかコメントになりますが、個人的にですが自分で本を書いたときには、ゲームセンターがレジャーランド化することで生き残ったと考えておりました。要は「プリクラ」とか、クレーンゲームとか大型筐体、今ではVRとかも入っていたりしますが、人々が集まっていろいろな遊び方をする場所を「レジャーランド」という表現にすると、この本の「脱ディズニー化(≒均質化した体験のテーマパーク化の否定)」という議論は、私がイメージしたレジャーランド化と共存できるのではないかと思った次第です。

図4:小山氏による質問とコメント

 それから、遊ぶ場所として標準的なゲームセンター以外の場所にも触れていますが、どこがそうなのかというお話ですよね。最初にやった仕事だからこそ、いろいろと突っ込まれるところがあるだろうなとは思いますが、議論として持ってきたある種のブレイクアウトとしては、規制に関するの社会統制史の部分と、その裏返しである定着の部分、それから消費者の文化という部分がほぼほぼでした。

 ゲームデザインと消費文化的な議論は多分、体感ゲームとか対戦格闘ゲームとかが少しあったかなと思いますが、ほかにももうひとつ、何かエポックメイキングなゲームとかがあったのではないかという気がしているのですが、私もよくわかなくて……「ダービーオーナーズクラブ」とか、その後のオンライン対応のものもチラっと触れていましたけど、そういった意味で、何かもうひとつ出して「三本柱」になると綺麗になったかもしれないと思いました。

 あとは、やったら面白そうだと思ったのは「老人とゲーセン」だと思っています。私の住んでいる浅草では、パチンコではなくゲーセンに行くご老人が結構多いんです。おそらくですが、パチンコに行くほどのお金を持っていない、年金もそんなに多くないけど暇をつぶしたい、そんな人がゲーセンでメダルゲームをやっている側面がどうやらあるっぽいんです。今後はこういった需要が、どうやってゲームセンターに関わっていくのかが、素朴な疑問としてあるんですよね。

川﨑:ありがとうございます。まず社会的に擁護する関連のお話ですが、ゲーム史を記述している人たちは、ゲームの社会統制をすごく否定している論調の方がかなりいらっしゃいます。実は、私は当時の規制というのは、それほど毛嫌いされるものではなかったんじゃないかという書き方を考えていたのですが、社会的に擁護されるにあたっての基礎的な文献としても考えられたのは逆に面白い、なるほどなあと、改めてコメントを聞いていて思いました。

小山:社会的にちゃんと定着、ソフトランディングをさせた、だからちゃんとコントロールできているんだという形の議論として、十分に価値があるのではないかと思います。

川﨑:そのうえで、ほかのコメントや質問に関してなんですけども、店舗形態に関してレジャーランドに近いのは、おそらく独立店舗、いわゆる普通のゲームセンターになるのではないかと思います。なぜかと言いますと、併設型のゲームセンターに関しては、ある程度親子連れの客向けに指向しやすい部分が出てしまう、あるいは店舗ごとの性質に合わせた、例えば映画館とかボーリング場とかに指向しやすい中で、独立した店舗ではあくまでゲームセンターとして、ひとつの場所にさまざまな客層向けのゲーム機を置くことができると。

 あとは、ゲームセンターは場所をしっかり取れるので、多様なレジャーを実験としても扱えるというのは確かにそのとおりなので、独立した店舗はレジャーランドに近いなとは思いますし、言われたとおり「レジャーランド化」と「脱ディズニー化」は共存できると思います。

 もうひとつ、ゲームデザインから消費文化のお話では、体感ゲームや対戦格闘ゲームよりも先のお話を全然していなかったのは事実です。以前に中川大地さんとも議論をしたのですが、物理的なカードが関わるカードゲームが出てからはゲームセンターに持って行くものが増えたりですとか、別のカードショップへの導線が出来上がったりとか、そういったものも含めて考える必要があるのかなと、今パッと思い付いたところですね。

小山:対象とした期間のちょっと後のお話だから入らなかった、ということですよね?

川﨑:今回に関してはそうですね。それと「老人とゲームセンター」についてですが、加藤裕康さんがひとつだけ研究をやっていまして、老人がゲームセンターにどれぐらいいるのかを十数軒で定点観測したら、実際にはそれほど多くはいなかったそうです。老人が集まる所は、先程言われたようにメダルゲームがある店とかに限定されているのが見えていますので、逆に言えば全体として「老人とゲームセンター」を語るよりは、そういった所で老人がどのように集まって遊んでいるのかは、議論の焦点になるのではないかと思いました。

鴫原:今「老人とメダルゲーム」のお話がありましたが、業界内でも十数年前からトレンドになっていて、当時はマスコミにもよく取り上げられていました。じゃあ、なぜお年寄りがメダルゲームを遊ぶのかと申しますと、単にメダルゲームが一番遊びやすいからだと思います。当時の業界誌では、お年寄り限定で熱いお茶や、メダルゲームを遊ぶと手が汚れるのでおしぼりや手袋を無料で利用できるサービスを提供しているお店がよく紹介されていました。

あとは子供と同じで、ゲーセンが「ここに来れば誰かに会える」集会所になっていることですよね。しかもプッシャー型のメダルゲームであれば、誰かとしゃべりながらでもゆっくり時間をつぶしながら遊べます。ちなみに、川﨑さんは「COOL104」とか「What If?」などのシングルタイプのメダルゲームはご存知ですか?

川﨑:シングルタイプとは、どういったものですか?

鴫原:1人で遊ぶ、簡単に言うとトランプとかの役をそろえたりすると当たりになって、さらにダブルアップに繰り返し挑戦するとジャックポット(大当たり)になるみたいな、昔から定番のシグマのメダルゲームですね。多分、25年ぐらい前に登場したゲームですが、いまだにメダルゲームコーナーに置いてあるゲーセンが結構多いんです。

じゃあ、なぜずっと置いてあるのかと言いますと、常連の地元のお年寄りがよく遊ぶからなんです。もしそれを取り下げると、もう遊ぶものがなくなってしまう、店に来る動機がなくなってしまうんですね。お店側も、そこはちゃんとわかっているので、何度も何度も壊れるたびに無理矢理その都度修理して稼働させている背景が確かあるはずなので、この辺りを調べてみるといいかもしれませんね。

川﨑:それで思ったのは、「上海」などのいわゆる知的ゲームの類ですけど、それらのゲームがいまだにずっと置かれている場所で遊んでいるのは、やっぱりご老体の方が多いんです。実例として出せそうなのは萩野茶屋で、あの辺は社会人の労働者、いわゆる日雇いの方々も含めた、多くの労働者が元々多くいたゲーセンが2軒あったんですけど、どちらも「上海」とかが主体になっていました。

そういった理由で、やはり遊んでいたのはそこにずっと住んでいらっしゃる方で、仕事帰りに遊びに行く人がほとんどだったので、こういった店であれば場所や年齢に合わせたプレイの仕方がすごく見えやすいのではないかと思いました。後でまた調べてみたいと思います。

鴫原:それから「多様な店舗展開」につながるところでは、おそらく川﨑さんの著書では触れられていなかったと思いますが、もうひとつぜひ研究されてみてはと思ったのがドライブインですね。地方に行くと今でもあるのですが、元々は「コインレスト」「コインスナック」などといった呼び方をしていたかと思いますが、今でもSNSとかでネタになったりしていて、食べ物や飲み物の自動販売機をズラっと並べた休憩スペースや飲食コーナーが昔のドライブインにはよくあって、そこに喫茶店みたいにテーブル筐体とかも一緒に置いてあったんです。こちらのほうも、フィールド調査をされると面白いのではないかと思いました。

川﨑さんは関西にお住まいですので、そちらですと関東地方とはまた違った結果が出てくるかもしれないですね。ちょっと遠いですが、例えば島根県にある「オートパーラーやすぎ」とかに行って調査すると、何か面白い情報が得られるのではないでしょうか。私も以前に、長野県の郊外にあった、元々は「コインレスト」としてバイパス沿いで営業していたのに、やがてゲーム専業になったお店を取材したことがあるのですが、すごく勉強になったので、ぜひドライブインを当たってみると宜しいかと思いますが、いかがでしょうか?

川﨑:ありがとうございます。私も「オートスナック」という名前で知っておりまして、1977年だったと思いますが、業界誌に載っていたんですよね。あの頃からすでに郊外の国道とか幹線道路沿いにあって、トラックで仕事の途中とか帰りとかに行く人たちがいたというのは、実際に会って調べてみたいのですが、言われたように遠いので、実際に行くのがたいへんなので行けなかったという事情がありました。

 ほかの店舗形態と全然違う形が見えてきそうですし、多分なくなった理由とかも単純にゲームだけの問題ではなく、ほかの理由もかなり大きそうだなあと。特に、コンビニとかの影響が大きいと思いますね。

鴫原:新しい幹線道路が近くにできて車の流れが変わったとか、周囲の環境の影響が当然大きくなりますよね。

川﨑:まさに、そういった店舗も調べていきたい所であるのは間違いないですね。ありがとうございます。

鴫原:関連産業に手を伸ばすのも面白いかもしれませんね。私もまだ詳しくは調べていないのですが、人づてに聞いたところでは関西では昔からゲームメーカーがいろいろあって、アーケードゲームを作るにあたってハードに使用する部品の調達は1社だけでは完結しないので、周辺の町工場とかで筐体のデザインや量産をしていたとか、ネジなどの細かい部品も下請け工場とかが作っていたそうです。

 そういった町工場は、阪神淡路大震災で甚大な被害を受けて壊滅してしまったそうですが、これらの関連産業が壊滅する以前に、ゲームセンターが社会的に受け入れられる過程でどんな貢献を果たしたのを調べるのも面白いと思いますが、川﨑さんのほうでも調べたことはありますか?

川﨑:そこまでは調べていないです。業界誌にも、そこまでの情報はほとんど載っていないので、そもそも追い掛けることすらできなかったですね。プレイヤー目線ですと、どうしても部品の工場とかの発想は出てこないですし。なので、企業がどのぐらいほかの所に下請けをしていたとか、その辺の話を聞きに行かなくてはいけないのかなと思いました。ぜひやってみたいですが、ちょっとたいへんそうではありますね……。何か調べるための取っ掛かりがあるかどうか考えてみます。

井上:それでは、ここでチャットのほうでも質問をいただいておりますので、ひとつ読み上げさせていただきます。

「『日本のゲームセンター史』という議論が、今後どのような形で発展していくのかが気になっています。中国のゲームセンター事情については、32ページの注釈で簡単に文献を引き、詳細な議論は避ける旨の記述があります。社会統制史の面からゲームセンターの歴史を語るには、中国や台湾、韓国などアジアのゲームセンター史についても触れると、より有意義な議論に発展するように思われますが、この辺りの先行研究は進んでいるのでしょうか? また、ヨーロッパのゲームセンター史も気になっています」

川﨑:研究としては「あまり……」という状況ですが、実際に記述として中国のゲームセンター市場はどうなっているのかという話題はよく出てきています。32ページの注釈に書いたのは、中村(彰憲)先生の本(※筆者注:「中国ゲーム産業史」を指す)ですね。その本でも書かれているように、中国では2003年以降はゲームの輸出入はできなくなったので、かなり停滞したとのお話は聞いていました。

 その後、今の韓国や中国ではプライズゲームがはやっているとか、そういったお話がニュース記事や一部の研究では出ていたりするのですが、あまり体系的にまとまったものにはなっていないですね。例えば、一昨年に開催された「DiGRA」(※筆者注:2019年8月に京都で開催された「DiGRA 2019」を指す)で、上海のゲームセンターが当時どのぐらいあったのかといった発表もありました。こういった形のものをいろいろな人がやり始めているので、これらをうまくまとめていくことが必要ではないかと考えています。

 ヨーロッパのゲームセンター史に関しては、アメリカやイギリスに関しては、本書で挙げた本の中でも結構出ていますね。「Replay」(※筆者注:「Replay: The History of Video Games」のこと)とかの本でも、ある程度はゲームセンター史のことが書かれていますし、あとはアメリカのゲームプレイ文化に関する話の中で、社会統制についての話も出てきます。

ただ、アメリカに関しては州や市ごとにバラバラで、実際にそれぞれの州とか市とかでどういった規制があったのか、多分ちゃんと見なければアメリカのゲームセンター史全体がまったく見えてこないですね。単に「衰退した」みたいな言われ方をしていますけど、そんなことは多分ないでしょう。全体としては衰退しているのは間違いないので、本書ではある程度そのように書いてしまったのですが、細かく見ていくと実はまだ残っているので、州や市の分析とかをしていく必要があるのかなと、アメリカのほうは見ていて思いました。

 ドイツに関しては、今回の博論では出さなかったのですが、注釈では少しだけ載せてありまして、1985年の青少年保護法によってアーケードゲームにすごく厳しい規制が敷かれ、子供たちがいる所に戦争を称揚したり暴力的なゲームは全部ダメになって置けなくなりました。その結果としてカジノ施設に近い所、いわゆる「Spielhalle(シュピールホール)」とかに置かれるようになって、ほぼ衰退していった流れがあります。

 このように、いろいろな国のゲームセンターの社会統制史はちょっとずつ調べられているのですが、英語文献とかで確認できることはそれほど多くはないことは間違いないので、今後どんどん研究が進んでいけば、かなり有意義な議論ができるのではないかと思いますし、ぜひさせてもらいたいなとも思っております。あとはゲームの音楽家のHallyさんは、台湾のゲーム統制史にもすごく詳しくて、すでに発表もされていましたよね。私もすごく勉強になりましたし、こういった形で少しずつ研究が進んでいます。以上でお答えになっているでしょうか?

井上:中国のゲームセンター事情については、人によって言うことがバラバラなので、まとまった研究が欲しいところですね。

川﨑:ええ。そのとおりなのですが、私は中国の伝手がそこまでないので、ぜひ中村先生などと協力してやっていけたらいいなと思います。

井上:ありがとうございます。それから私共、立命館大学大学院の博士課程でゲームの歴史に関わる研究をしている大学院生がおりまして、そのおひとりである毛利さんにも来ていただいておりますので、毛利さんからもいくつか質問をお願いします。

毛利:立命館大学大学院の毛利仁美です、宜しくお願いいたします。まだ川﨑さんの著書はすべて読んではいないのですが、駄菓子屋の論文なども読ませていただき、たいへん参考になっております。各先生方がすでに仰っているかと思いますが、川﨑さんの研究で非常に興味深い点としては、子供向けとして駄菓子屋、大人向けの喫茶店などのように場所だけではなく、結果的に場所を選定したことで対象者が分かれた面もあったと思いますが、対象者も分かれている点がかなり特徴的だと思います。

私自身も、研究で1975年頃からの子供向けの雑誌や玩具業界誌を近年読んでいて、子供とゲームとの関係についてかなり興味があるので、ここに関連した質問をさせていただければと思います。子供や玩具業界では、1970年代後半から80年代にかけてアーケードゲームの興味がかなり強い時期が続いたと思いますが、駄菓子屋以外の場所でも子供とアーケードゲーム、あるいはゲームセンターの関係を分析できる可能性があるとお考えでしょうか?

川﨑:アーケードゲームに関しては、子供向けの雑誌とか玩具業界誌とか、あとは駄菓子屋とかになってしまいますが、置かれている場所だけを見るといろいろな場所に置かれていまして、書店とかクリーニング店とか特殊な場所もあったりします。90年代になると、特にSNKとかカプコンとかがリース業にも参入して、いろいろな所にゲームを置くようになったんです。レンタルビデオ店がすごくわかりやすい例ですね。私の知っている限りでも、マクドナルドなどのファストフード店にもSNKが参入していて、そこで子供がゲームで遊んだりとか、「プリント倶楽部」(川﨑注:ここでの「プリント倶楽部」はSNKの「neoプリント」のことを指す)で遊んだりとかもしていました。

 なので、場所で見ると結構いろいろな所にゲーム機が置いてあったので、置かれていた所でどう遊ばれていたのか、多分見ることができると思いますが、そういった場所以外の要素で、アーケードゲームと子供の関係やゲームセンターの可能性を見るとなりますと、多分学校の校則ですとか社会統制の面で、学校がどのようにゲームセンターを見ていたのかもかなり重要な観点になると思いますし、私もちょくちょく調べています。

学校が「ゲームセンター禁止令」、要はインベーダーブーム期に「ゲーセンに行くな」と指示を出していた時期がありましたが、そこからどうやって緩和されていったのか、あるいは子供たちが隠れて遊びに行っていたのか、そういった部分も見ていく必要がありますし、今後も戦後の日本の子供の歴史を、子供の外での娯楽の歴史を見るときには、間違いなく重要になると思います。私も、もし可能であれば見ていきたいですね。

ただ、校則をどうやって網羅的に調べればいいのか、教育委員会に聞く以外にはないのかなあとか、今悩んでいるところではありますね。とりあえず、今パッと言えるのはこんなところでしょうか。

毛利:1979~80年ぐらいから、電子ゲームにアーケードゲームが移植されると言いますか、「ギャラクシアン」とか「パックマン」とかが電子ゲームで遊べる形になって販売されたかと思いますが、子供が興味を示したから販売されたのか、それとも作っている大人側で興味があって子供に提供していたのか、ここがすごく気になっています。子供が隠れて遊びに行っていたとか、そういうことがわかるのであれば、すごく面白いなとも思ったので質問させていただきました。

川﨑:そうですね。「ゲーム&ウオッチ」に関しては、元々は大人向けだったところから子供にという流れが間違いなくあったはずで、新幹線とか電車とかでの移動中に遊んでいて、やがて子供の間でも流行する流れは、任天堂関連であれば多分見ることができると思います。ほかの電子ゲームについては、ちょっとわからないですね。

鴫原:「ゲーム&ウオッチ」については、川﨑さんが今お話をされたとおりかと思います。それ以外の電子ゲームですと、例えばFLゲーム、FL管(蛍光表示管)を使った乾電池とかで動いて、結構サイズが大きいタイプの電子ゲームが当時はたくさんありました。毛利さんが先程挙げていた「ギャラクシアン」や「パックマン」も、おそらくFLゲームのことを指していると思いますが、こちらに関しては私の当時の経験から申しますと大人がやるものではない、完全な玩具とみなして宜しいかと思います。後のファミコンでは「麻雀」が発売されたように、大人でも遊ぶ人は明らかにいましたが、電子あるいはLSIゲーム、特にFLゲームに関しては、完全に子供向けだと思っても差し支えはないと思います。

小山:当時、まさに子供と言いますか「インベーダー」の頃は小学校にまだ入っていない世代から言うと、親が欲しがってる気配はまったくなく、子供が「欲しい」と言った場合には、普通の玩具と比べてもかなり高く、5000円を大幅に超えていて、FL管のゲーム機はすごく大きいので「ちょっと奮発して買おうかな」ぐらいの位置付けの玩具だったと思います。

毛利:私もエポック社の「ギャラクシアン」を買って遊んでみたのですが、結構ゲームセンターに近い、再現度が高いものが出ていたので、子供が望むものだったのかなあと興味があったので、またこれから少しずつ教えていただければと思います。ありがとうございます。

あと2点ほどお伺いしたいのですが、先程もアメリカのゲームセンターの歴史でもお話がありましたように、州ごとに規制が違うとか、地域性がゲームセンターには関連してくるのではないかと思いますが、川﨑さんの中でゲームセンターと地域性にはどんな重要性があるのか、そういったご意見などはありますか?

川﨑:すごくわかりやすい例で言いますと、「ゲーメスト」とか「アルカディア」とかのゲーム雑誌を見ると西と東ではが違うみたいな、プレイヤー文化の違いがすごくわかりやすく書かれています。実際、私もゲームセンターのコミュニティにいろいろ入っていますが、地域の違いは結構感じますね。

それは単にプレイヤーコミュニティによるものなのか、あるいは地域ごとの風土によるものなのか、まだそこまではあまり判別できていないので、ちゃんと調べられるのであれば調べてみたいですね。多分、ゲーム雑誌の読者投稿欄とか、それぞれのプレイヤーとかに直接聞くことができれば一番手っ取り早いですし、それをちゃんと学術的にまとめられれば、かなり面白い研究になると思いますので、ぜひ今後もやってみたいですし、聞ける人に聞いていきたいですね。

鴫原:ひとつ宜しいでしょうか? 今の川﨑さんのお話にあった、関東と関西での違いは明確にあって、例えば「ダンスダンスレボリューション」には「関西ステップ」と呼ばれる遊び方があったかと思いますが、これがそのひとつの典型ですね。それと、私が仕事としても経験がある、先程も川﨑さんが触れられていたカードゲームにも面白いところがあって、プレイスタイルが店舗ごとに極端に違っていることもありました。

また、これは対戦格闘ゲームでも言えるかと思いますが、カードゲームが稼働した当初はオンライン対応ではなかったので、地域ごとにプレイスタイルがはっきり違っていたのですが、やがてバージョンが新しくなってオンライン対応となり、全国の店舗間でリアルタイム対戦ができるようになったり、それからゲーム以外でもネットインフラが発達して、個人のブログやSNSで簡単に攻略情報を共有できたりするようになってからは、プレイスタイルやカードのデッキ編成が全国的にほぼ均一化してしまう、テンプレート化する傾向が如実に表れるようになりました。これは今でも続いていますので、ここも関連付けて調べると面白いかもしれません。

川﨑:そうですね。私からも追加すると、今でもネットインフラがあってもあまりにも遠過ぎるケースがあったり、国ごとにも差異があったりして、私が知っている限りではアメリカですと州が離れ過ぎていて、それぞれのオフラインコミュニティごとに特殊性が出てくるという話を以前に聞いたことがあります。

直近の話で言えば、「鉄拳」で中東かどこかの国(※筆者注:パキスタンのラホールを指す)メチャクチャ強い方が突然現れたという話がありましたが、それぞれの国でプレイヤー文化の違いは間違いなくあると思いますし、同じ国であっても州レベルでの違いを確認できる可能性はあると思います。そういった話も、もっと調べていきたいですね。

毛利:日本でいえば市とか、それよりももっと小さくした一区画の中に、例えば学校などの場所からの距離ですとか、その中で何か独自のコミュニティがあったのかとか、それこそ無限に研究ができてしまうと思いますけど、そういったこともアメリカとかは違うじゃないですか? もしかしたら、都会だったら似ているところもあるのかもしれませんが、距離感みたいなところにも特徴があったりするのかなとは思いますので、そんな細かい単位でも興味がありますね。

小山:当時だと、小中学校のクローズなコミュニティは当然あったのですが、学校間をつなぐネットワークになっていたのが塾だと思います。塾には複数の学校から子供が集まるので、そこで情報交換をすることはあったはずです。確か、小説の「ノーライフキング」は、そういう立て付けでお話を作っていたかと思いますし、多分そこにひとつのネットワークのハブみたいなものがあったのではと、個人的な経験から思いますね。

毛利:それでは最後の質問をさせていただきます。「研究の今後の課題と展望」についてですが、「COVID-19」に関してはこれから、あるいはここ2年ほどの影響だと思いますが、それ以外の展望としては、川﨑さん自身としては黎明期なのか、あるいは80年代や90年代なのか、時代区分的にはどの辺りを集中して研究されたいとお考えですか?

川﨑:黎明期から90年代、できれば2000年代までを書いていきたいのですが、同じ黎明期でも研究がまだ進んでいないところがある可能性もあって、例えばゲームの売上ですよね。売上とかを見ていると、すごく評価が高くて、よく遊ばれていたように見られていたゲームが、実際にはそれほど遊ばれてはいなかったとか、あるいはどのように遊ばれていたのかとか、一部の地域だけだったのではないのかとか、そういった話も見えてきます。なので売上を見つつ、それを質的に調査することができれば面白いのかなとも思っています。こういったことを含めて、ある程度黎明期のことを掘り下げていきたいですね。

最近のことに関しては、ある程度コミュニケーション研究とかにもなってしまう部分があるので、ここはどう考えればいいのか、ちょっと悩んでいるところですね。ここは加藤さんが、イベント論とかで進めているところではありますし、それとどのように接続していくのかは考えていきたいと思います。メインでやりたい、80年代から90年代のほうを先にやりたいなと思っていますが、私もまだそこまでやり切れていないというところですね。

毛利:ありがとうございました。私からは以上になります。

井上:ありがとうございます。あとは、チャットのほうでいくつか質問をいただいております。

「1950年代の温泉観光ブームに伴い広がった、旅館や観光ホテルへのゲームコーナーの設置について、どのような機器がどのような目的のもとに設置されていたのか、今はどんなものが残っているのかなどを伺えると幸いです。インベーダーブームよりもかなり早い時期だったので、背景やその後の経過も伺えると幸いです」

それから、

「先程の『鉄拳』のお話でも出てきたように、都市ごとでプレイスタイルの違いがあるのかが気になっています」

とのことです。

川﨑:ありがとうございます。1950~60年代の資料については、赤木(真澄)さんがまとめている本(※筆者注:赤木氏の著書「それは『ポン』から始まった」を指す)とか、レジャー産業系の文献資料とかに左右されがちで、どうしても50年代の温泉観光ブームとか、あるいはゲームコーナーの設置とかは、実態がどうしても把握できないところがあります。結構はやっていたみたいな話は、当時に残された資料から聞き取ったものが文献資料として残っているのですが、その実態をどうやって調べるのか、特に50~60年代になると写真も残っていないケースがほとんどなので、そこは悩んでいるところではありますね。

今も残っているものに関しては、70年代以降のゲーム機が多くて、例えば九州の耳川だったと思いますけど(川﨑注:実際に想定していた場所は「指宿いわさきホテル」を指す)、そこの旅館ですとか、昔から残っている所にずっと置き続けているものとか、逆に「これが商材になるから」といって新しく運ばれていく場所もちょくちょくあったりもしますので、残り方はバラバラだったような気がします。

 背景に関しては、50~60年代は平和になったということで観光や旅行ブームが起きまして、70年代にはいわゆるレジャーブームが出てくるという流れがあります。その中で、レジャー、観光に行く、親子連れで旅行に行くすき間を埋める形で、空き時間にゲームをやってもらうとか、あるいは泊まって晩に遊ぶ場所がないからゲームコーナーに行ってもらうみたいな、そういった目的があったのが結構大きかったのではないかと、文献資料などを見ているとそのように思います。ボーリング場とかでもいっしょですよね。

 それから別の質問ですが、どうしても都市ごとのコミュニティの違いが調べられないので気にはなるんですけども、調べられないので誰かに調べてほしい思いはありますね(笑)。それこそ現地の方ですとか、あるいは近い国の研究者とかに、ぜひ調べてほしいですね。どうしても直に行けないので……。

井上:ありがとうございます。それでは、ちょうど時間となりましたので、最後に司会の私のほうから、ひとつ質問をさせていただいて終わりにしたいと思います。総括的な質問となりますが、日本のゲームセンターが、アメリカでもヨーロッパでもなく、日本という場所でこれだけ大きく文化として育ったのかはなぜだったのか、なるべく短めに答えるとしたら、どのようにお答えになりますでしょうか?

川﨑:多分、文化的な面と社会的な面との両方がありまして、社会的には3章でも指摘したように、ほかの類する娯楽はすでに完全に規制されていて曖昧な対応ができなかったので、ゲームセンターのような曖昧になりかねないものを完全に切り離すことができたのが、社会的な要因としてまずあると思います。

そのうえで、文化的な要因としては、7章でもちょっと触れたのですが家の外で遊ぶ娯楽に対して、意外にも日本人は昔からあまり抵抗がない。そもそも「家の外でも遊んでいいよ」という価値観になっていることが重要な点ではないかと思います。アメリカですと、エリック・エイックホーストさんという研究者の方が、30代とか大人の男性が家の外でアニメなどサブカルチャーの娯楽に触れることがすごく批判的にとらえられるので、ここが日本と大きく違うことを2005年か2006年頃に発表されていました(川﨑注:Eickhorst氏の論文である「Game Centers : A Historical and Cultural Analysis of Japan Video Amusement Establishments」(2006)を指す)。

こういった点を踏まえると、日本のゲームセンター、あるいは家の外の娯楽に対して、大人でも子供でも誰もが楽しんでいい、そのような場所を作ってもいいという文化的な土壌があることが、非常に重要ではないかなと思っております。

(本内容は2021年度 第4回定例研究会 (2022年3月16日18 :00)で行われた内容です.)